『Niche』

 五月の青空に小さな白いボールが吸い込まれていく。心の上澄みが抜き取られて、空っぽになった身体まで持っていかれそうになる。これが俺のカタルシス。
 今日は、知人に誘われて、とあるゴルフコースに来ていた。ここは、伝説のアマチュアゴルファー赤星五郎氏設計の隠れた名コースでもある。自然の地形を生かして作られた起伏に富んだコースは難関だが故に面白い。また、溢れる自然と景観の良さも魅力の一つだ。
 空は快晴、風も凪、まさに絶好のゴルフ日和である。
「ミスショット!」
 ・・・にも関わらず、さっきから俺は、ミスショットばかりを繰り返していた。青い空から吐き出された白い球が丘の向こうに消えていく。しまった、あの勢いだと林に突っ込んでしまう。周囲の嘲笑と野次に作り笑いを返し、俺は慌ててボールを追った。

 軌跡から予想した範囲を歩き回っていると、突然、俺の鼻を異臭が刺した。思わず鼻を手で抑えて周囲を見渡すと、林の中で何かが動く気配を感じた。
 何かの動物だろうか。ゴルフ場には、しばしば野生の動物達が顔を出す。以前俺もシカの親子が木陰で寝そべっているのを見た事がある。特に猟の解禁時期になると、狙われた動物達がゴルフ場へと逃げ込んでくる。彼らは、人間(ゴルファー)が自分達に危害を加えない事を知っているのだ。木を切り山を拓いて作るゴルフ場は自然破壊だと叫ぶ輩がいるが、俺は逆に人間と動物が共生できる未来ある場所だと主張したい。

 しかし、俺が林の中に見つけたものは、シカでもタヌキでもない。人間の姿をした生き物だった。
「あー・・・どうも」
 それは日本語を話した。ひょろりと伸びた背に鳥の巣頭。無精髭。いつ洗濯されたのかを疑うほど捩れたジーパンとTシャツ。片手にやけにでかい毛皮の帽子を持っている。一見、浮浪者に見えなくもないが、どうやら列記とした人間のようだ。
「ど、どうも。失礼ですが、清掃員の方か何かですか?」
「あー、まぁそんなもんで」
「この辺りに、私の球が飛んできませんでしたか?赤い富士のマークが・・ついて・・・」
 最後まで言う前に、俺はその不審さに気付いた。男が片手に持っている帽子から足が生えている。
「な、ななな、何ですか、それはっ」
 男は、俺が指差したものを少し持ち上げて見せた。
「ノウサギですよ。正確には、トウホクノウサギというんですが」
 ぎょっとした。男が死体を持ち上げた時、裏返ったウサギと目が合ったような気がしたのだ。飛び出した目。それは、一瞬で顔を背けたたくなるような酷い惨状だった。
「ゴルフカートに轢かれたんでしょう。こいつらは夜行性で昼間は大抵寝ているんですが、ゴルフ場のあった場所に、元々彼が気入ってた寝床でもあったんでしょうなぁ」
 淡々と告げられる言葉に、私は後頭部をがつんと殴られたような気がした。晴天の霹靂とはまさにこのことだ。
「まー私の専門ではないんですがねぇ・・・」
 驚いて腰が引けている私を他所に、男は人に頼まれただの何だのと呟いている。思わず俺の思考回路が飛んだ。
「た、食べるのかっ、それを!」
 男が死体を持ち上げ匂いを嗅ぐ。
「食えないでしょ、さすがに。ウサギの肉は水水しくって私は案外好きですけどねぇ。いくら身体の丈夫な人でも、腹ぁ壊しますよ」
 それとも、あなた食べてみますか?と、本気なのか冗談なのか解らないことを言う。それにしても動物に詳しいと思える発言の数々。これではまるで・・・
「動物愛護団体か。・・け、警備員を呼ぶぞっ」
 セリフとは裏腹に、声が震えている。男が肩をすくめる。
「私は自分の好きなことをしている。あなたもそうでしょう」
 男は、そこを動かない。雑木林の中に立つ男と、グリーン芝の上に立つ私。二メートルも離れていないというのに、まるで私と彼の間には、見えない壁があるようだ。
「あんたは一体、何者なんだ?」
「生物分類上は君と同じ種だが、ニッチが違う。まぁ、アカネズミとヒメネズミの差くらいには、ね」
 俺には全く解らない話題で、男はニヤリと笑った。
「おおーい。ボール、まだ見つからないのかぁ」
 丘の向こう側から知人の声が俺を呼ぶ。ああ今、と答えて再び林の方を向くと、そこに男の姿はなかった。ただ、獣の臭さだけが僅かに漂っていた。


 後日、知人からの電話で、あのゴルフ場が閉鎖されたことを知った。動物愛護団体だか自然保護団体だかが訴え出たのだという。どこかの有名な大学助教授が調査を依頼され、地理的隔離を証明したという話だったが、やはり俺には解らない。
 会社を出ると、夕方まで降っていた雨は、すっかり止んでいた。
『それより良い場所を見つけたんだ。次の休みにでも、どうだ?』
 一瞬、私の脳裏にウサギの死体が浮かんだ。しかし、それだけだった。
「あぁ、行こう。楽しみだな」
 私は携帯を切ってポケットに入れると、手にしていた傘を逆手に持ち、暗い宙に向かってショットを打った。


-THE END-