『さとり』

 書く事も辛い程の出来事があった。生きていく事がただ辛い。そこで私は・・・

・・・解脱しようと思った。

 その為に、子供の頃に読んだ『ブッダ』という漫画を思い出しながら、それに習おうと思う。
 まず、彼は始めに髪を剃った。しかし、元々私の髪は薄い。
それはもうシベリアのツンドラ地帯、はたまた中国のゴビ砂漠さながらの寂しさである。僅かに生える神髪を私は毎朝早起きして、念入りにブローする。
それを剃るというのは耐え難い苦痛。
 だが、私の解脱への意志は固い。私は涙を堪えながら髪を剃った。
 全てを終えると、見事に丸く美しい月が鏡の中で輝いていた。案外私の頭は綺麗な形をしている。
それに、これからは髪の薄さを気にする必要がないと思えば、むしろ気分がすっきりした。

 次は苦行だ。ブッダは、辛い苦行を続ける内に、その無意味さを知る。それは、実際に苦行した者にしか解らない。しかし、苦行とは一体何をすれば良いだろう。
 とりあえず、食事を抜いて、身体を酷使する事にした。真夏の炎天下の中、水分も取らず運動をすれば、まさに現代の苦行だ。
そこで、運動し易い格好に着替えて玄関に立つと、妻からついでにと犬のリードを渡された。
 仕方なく犬と一緒に近所を走るが、普段からの運動不足ですぐに息が上がった。
会社の健康診断でメタボと診断された太鼓腹を揺らしながら走る、というよりは歩いているように周りからは見えただろう。
それでも何とか近所をぐるりと一周し終えて家へ戻ると、むしろ身体の調子がよくなったように感じた。
 いかん、これでは苦行の無意味さを知ることは出来ない。もっと意味のない苦行らしい苦行が必要だ。
そうだ、先日TVで見た、山奥の滝に打たれている修行僧を見習おう。
 しかし、近所に滝はない。そこで私は、物置から流しそうめんに使う竹を持ち出し、二階のベランダから吊るした。台所の水道からホースを引いて竹に縛り付ける。
蛇口を捻ると、一階にある庭に向けて注ぎ落ちる滝・・・のようなものが完成した。
 私は海パン一丁の姿になって滝に打たれた。真夏の炎天下の中を走って火照った身体に冷たい水が心地よい。
 いかんいかん、これは苦行なのだ。と自分に言い聞かせ、両手を合わせて目を瞑った。映像が途絶え、滝の音だけが聞こえる。
 じょぼじょぼじょぼ。
 ・・・トイレに行きたくなった。しかし、これも苦行と思い我慢する。
まぁ、海パン姿だし庭だし水が流れているし、ここで用を足してしまっても問題ないのではないか、という悪魔の囁きが聞こえる。
そんな葛藤の最中、庭に面した通りを行く外人が「お〜ジャパニーズしゅぎょう=I」と言いながら写真を撮る音が聞こえた。・・・私は一体何をしているのだろう。
 すると突然、水が止まった。怪訝に思って上を向くと、ベランダから妻の顔が覗いた。
「水を無駄にしないでください! 水道代が嵩むでしょう!」
 なるほど。やはり苦行というのは無意味なものなのだ。
 それを悟った私は、次の段階へ進む事にした。苦行をやめたブッダは、一人の女性から乳粥をもらう。私は妻を呼んで、それを作ってくれるよう頼んだ。

「・・・・なんだ、これは」
 私の目の前には、食卓の上で皿に盛られた白いものが暖かそうな湯気を立てている。
「何って、あなたが食べたいと仰ったんでしょう。ちちゅうですよ、チチュー=v
 チチュー≠ニいうのは、シチュー≠フ事だろう。そうだった、妻は最近、耳が悪い。
乳粥とシチューでは全く違う食べ物である。洋食のシチューで仏陀となれるかどうか大変不安が残るが致し方ない。乳が入っているところは同じである。
私は、シチューにご飯を入れると、じっくり味わってそれを平らげた。美味い。
時間をかけて食べた所為か、一杯だけで腹が一杯になってしまった。

 最後にブッダは、菩提樹の根元に座って瞑目し、真理を得る。
 しかし、この辺りに菩提樹などという立派な木は生えていない。代わりに、私が趣味で育てている盆栽を抱え、地面に座った。
これで無我の境地を得れば、私は解脱することが出来るだろう。
 私は目を瞑った。まぶたの裏に、これまで行った数々の苦行が浮かんでは消えていく。それらは、平凡な日常において見慣れた筈の景色なのに、新鮮な色をしていた。
 ぷ〜ん、ぷ〜んと蚊の鳴く音が私の思考を邪魔する。反射的に頭を振ったが、すぐに思い直し、身を正した。
しばらく耐えていると音が止まった。身体がぞわぞわとするが、気にしてはいけない。すると不思議なことに、すーっと気持ちが落ち着いていった。
 私は目を開けて空を見上げた。夜空の中で小さく輝く星を見ている内に、私は自分が世界と一体化したような気持ちになった。その瞬間、私は解脱した。

「私は悟りをひらいた。これで解脱への道がひらかれたのだ」
 これからは私の事を仏陀≠ニ呼ぶように、と妻に伝えると、妻は躊躇なく素手で私の顔を思いっきり打った。


-THE END-