学校へ向かいながら、麗良は自分の置かれた状況と気持ちを整理しようと試みた。
 昨日、突如として学校に現れた不審人物は、実は自分の父親で、事情はよく解らないが、外国での仕事とやらが一段落したので、これから一緒に生活を共にするという。
 …………全く理解できない。
 きちんとした訳があったのなら、これまで父親の存在を娘に隠す必要などなかっただろうし、何より母をあのような状態に追い込んだのは、 父親という存在だったのではないのか。それは、誰かに直接言われたわけではなかったが、父のことを聞いた時の母の様子や祖父母の態度、 そして自分の苗字が祖父と同じものであることからも子供の麗良にもなんとなく察せられ、母と接する上で配慮しなくてはならない重要なことの内の一つとなっていた。
 もちろん、生命が誕生するには生物学上両親が必要であり、自分にも父親はいると頭では解ってはいたが、実際に会うことはないだろうと割り切っていたのだ。
(おじいさまは、どうして……)
 実は一度だけ、麗良は祖父から自分の父親についての明白な回答を告げられたことがある。
 それは、麗良が小学校に上がったばかりの頃。同級生のクラスメイトたちには皆、父親という存在があることを知った麗良が、何度も母と祖父母にしつこく尋ねた。すると、いつも穏やかな母が急に理性を失い、半狂乱になって叫びだした。  それだけでも、まだ幼い麗良にとってはショックなことだったのに、暴力など一度も振ったことのない祖父が、怖い顔で麗良の頬を打って言ったのだ。『お前に父親はいない』と。それ以来、麗良が自分の父親について口にすることはなくなった。  半狂乱となった母、祖母の泣き顔、祖父の怒鳴り声、そして頬の痛み……それらの光景が何年経っても麗良の脳裏から消えず、心に深い傷跡を残していた。  自分の父親は、自分が生まれる前に死んでしまったか、何らかの犯罪に関わり会うことが叶わなくなってしまったか、もしくは他に家庭のある人なのかもしれない……と、様々な理由を考えて麗良は自分を納得させていた。それを今更現れて迎えに来たと言われても受け入れられる筈がない。  これから毎日、あの男と家で顔を合わせることになるかと思うと、麗良の気分は沈んだ。
(あまり関わらないようにしていれば、すぐに諦めて帰るわよ)
 そんなことを考えながら歩いていたからだろう、麗良は、交差点に差し掛かったところで、自家用車が走ってくるのに気付かなかった。
 突然耳に飛び込んできた大きなクラクションとブレーキ音に麗良が顔を上げると、すぐ目の前に自家用車が迫っていた。逃げる暇もなかった。 ぶつかる、と脳が認識した瞬間、甘い花の香りがした。すると不思議なことが起きた。すぐ目の前に迫っていた自家用車が宙に浮き、麗良の頭上を飛び越えたのだ。一瞬何が起きたのか解らなかったが、背後に誰かの温もりを感じて我に返った。たくましい腕が麗良を強く抱きしめる。自家用車はそのまま20mほど離れた先で地に着地した。
 この花の香りを麗良は知っている。
「良かった……間に合って」
 心から安堵する声が熱い吐息と共に麗良のすぐ耳元で聞こえた。同時に麗良を抱く腕に力が込められる。反射的に身を捩ると、腕の力が緩み、麗良はすぐに解放された。
「あなたは一体……」
 麗良が見上げると、人差し指を口元にあて魅惑的な微笑みを称えた悪魔がそこにいた。
「麗ちゃん、大丈夫?」
 後方から青葉が息を切らしながら駆け寄ってきた。
「危ないじゃないか、よく前を見て歩かないと」
 滅多に怒らない青葉に叱られ、麗良は肩をすくめた。どうやら青葉は、先程の光景を見ていないらしい。
 自家用車に乗っていた人には怪我もなく、どこか納得のいかない不思議そうな顔をしてはいたが、麗良の無事を確認すると、謝罪の言葉と共に走り去って行った。
 助けられてしまった。もう少し遅ければ、自分は大怪我を負っていたか、死んでしまっていたかもしれない。  麗良は意を決し、ラムファに向き直った。 「助けてくれたことには感謝します。でも、私はあなたを父とは呼べません」
 青葉が心配そうに見守る中、麗良の視線は、真っ直ぐ男の胸元にぶつかっていた。
 ラムファは、麗良の言い分は最もだ、と広い胸を張って答えた。
「私も是非! パパ≠ニ呼んでもらいたい」
 一瞬、彼らの間を妖精が飛んだような気がした。
 そして麗良は、失礼します、と丁寧なおじぎをして走り去った。

「ナゼなんだぁ〜……レイラぁ〜……パパと呼んで欲しいだけなのにぃ〜…………」
 大の男が泣きながら膝から崩れ落ちる。その姿に、麗良を追い掛けようとした彼を引き止めた青葉の良心が少しだけ痛んだ。
「あなた……ふざけているんですか? 麗ちゃん……麗良さんは、今まで自分に父親はいないと思っていたんです。 突然あなたが現れて、動揺するのは当たり前じゃないですか。どう受け止めていいのか解らないんですよ」
 そして僕も、と呟いた青葉の言葉は、ラムファの耳には届かなかった。
「そうか! つまり、照れているんだな。本当は、この逞しい胸に飛び込んで、パパぁ〜! と甘えたいが、恥ずかしさで葛藤していると」
「なんでそうなるんですか……」
 自分で自分を抱きしめて見せるラムファに、青葉が肩を落とした。この男を納得させるのは難しそうだ。
「君は……青葉くん、といったかな。もし、レイラの好きなものが何か知っていたら教えてくれないだろうか」
「好きなもの、ですか。そうですね……麗ちゃんは、花が好きで」
「それならもう試した。その結果がこれだ」
「あー……そうですね。……あ、あとは、甘いものも結構好きですよ。パンには必ずジャムか蜂蜜をかけて食べるし。 特に抹茶プリンは、どんなに機嫌が悪くても喜んでくれて」
 そこまで言いかけた青葉は、はたと我に返った。自分は何故こんなことをこの男に教えてやらなくてはいけないのか。 麗良が家を出た後、颯爽とそれを追い掛けようとする彼を追ってここまで来たのには目的があったからだ。
「そんなことより、僕はあなたに聞きたいことが……」
 と青葉が改めてラムファに向き直った時、彼の姿は既にどこにもなかった。

 ☆

 麗良が学校に着くと、校庭はいつもの土肌を見せ、教室も綺麗に元の姿へと戻っていた。花びら一枚見あたらない。 まるで昨日の出来事など初めからなかったかのようだ。
 麗良がいつもどおりにクラスメイトと挨拶を交わしながら席に着くと、ふわりと花の匂いがした。残り香だろうか。 ほんの少しもったいなかったかな、と昨日の光景を思い出し、同時に浮かんだ黒い悪魔の姿を脳裏から追い出すように首を振った。今あの人のことは考えたくない。
 麗良が鞄から取り出した教科書類を机の中へ入れると、何か柔らかいものが入っていることに気付いた。取り出してみると、それは小さな花束だった。ピンク色のガーベラに、マーガレット、カスミソウ。しかも《愛しいレイラへ、パパより愛を込めて》と手書きされたメッセージカード付きだ。
 数分前に置き去りにした筈なのに、いつの間に先回りして用意したのだろうか。半ば呆れながらも不思議に思って花束を見つめていると、隣の席にいた女生徒(クラスメイト)がそれに気付いた。
「わあ、可愛いブーケ。それ、誰かにもらったの?」
「あーこれは……うちの庭に咲いていた花を持ってきたの。良かったらもらって」
「え、いいの? うわぁー可愛い。ありがとう。上手ねぇ」
 麗良は花束だけを渡すと、彼女に見られないようにカードをそっとポケットに入れた。
「華道部って、こんな可愛いこともしてるのね」
 花束から顔を上げた女生徒は、合点のいかない麗良の顔を見て、あれ、という顔をした。
「華道部に入ってるんじゃなかったっけ」
 麗良が首を横に振る。
「私、クラブ活動はしていないの」
 えー嘘っ、と大きな声を出す彼女に、教室にいた他の生徒達の視線が集まる。彼女は、慌てて、ごめんね、と声のトーンを落として言った。
「ほら、花園さんの家って、あの有名な華道の家元でしょう。私てっきりそうだと思ってたわ」
 でも、どうして? と無邪気に尋ねてくるクラスメイトに、麗良は人形のような笑顔で答えた。
「私、花は嫌いなの」

 午前中は、何事もなく過ぎていった。不思議なことに、生徒の誰一人として昨日の話題を口にする者はいなかった。教師ですら何の説明もなく授業を進めていく。 まるで本当に昨日のことは夢であったかのようだ。
 お昼休みになり、皆が持参したお弁当を開いたり、食堂へ行くなどして各々の昼食をとり始めると、麗良は、お弁当を家に忘れてきたことに気付いた。
(朝あのまま出てきたから……依子さんに悪いことしちゃったなぁ)
 仕方がないので財布を手に食堂へ向かおうとした時、廊下から黄色い声が聞こえてきた。何事かと麗良が声を方を向くと、 数メートル先の廊下に女生徒たちが輪になって群がっているのが見えた。その中心には、頭二つ分以上飛び出したラムファがいた。
「な、な、な、なっ……」
 ラムファは、麗良に気が付くと、満面の笑みを浮かべた。
「やあ、レイラ。お弁当を忘れていっただろう。はい、これ」
 麗良の方へと弁当を突き出すラムファから、女生徒たちが麗良へと視線を移す。その目には、好奇心と嫉妬が入り交じっている。 どうやら女学園の女生徒たちにとって、ラムファの異国風な容姿はウケが良いらしい。
 ラムファは、周りを囲っていた女生徒たちに道を空けてくれるよう優しく促すと、他人のフリをしようする麗良の必死の努力に気付くことなく麗良の目の前まで近付き、 お弁当を手に握らせた。そのまま固まって動くことのできない麗良の耳元にそっと口を近づけ、優しく囁く。
「もう一つ、私からの贈り物だよ」
 麗良は嫌な予感がした。
「きゃあ! 何アレ?!」
 女生徒の叫び声に皆が窓の外を注視した。ラムファは、悪戯が見つかった子供のような笑みを浮かべた。どうやら彼女が先にその贈り物とやらを見付けたようだ。
 麗良は、恐る恐る窓の外へ目をやった。一見、普段と変わらない裏庭に見えたが、やけに視界が暗い。そこで窓際に近寄り視点を少し遠くへ延ばしてみると、 狭い裏庭の向こうに、道路を一本挟んであるバラ園から緑色の山が生えていた。もちろん、元々バラ園に山などある筈がない。見上げると、 山頂が校舎よりも高いところにある。しかも、何故かほんのり甘い匂いが漂っている。
「君の好きな抹茶プリンを作ってみたんだ。食べたことのないものは作れないからね、試食するお店探しに手間取ってしまったけど……昼食のデザートに間に合って良かった。
 我が国特産の万華蜜(カレイドハニー)をたっぷりかけてある。さあ、好きなだけお食べ」
 確かに言われて見ると、光沢のある山肌は、プリンのそれと似ている。風が吹くと、ぽよぽよと揺れる弾力性も食欲をそそるものがある。しかし、麗良の頭には、全く別のことがあった。
「…………バラ園は」
 え、とラムファが聞き返す。
「バラ園の薔薇たちは、どうしたんですか? まさかあの山の下敷きにしたって言うんじゃないでしょうね」
 とんでもない、とラムファは首を大きく横に振った。
「この私が、そんなひどいことをする筈ないだろう。大丈夫。薔薇たちには、ほんの少しの間だけ、別の場所に移ってもらっているから」
 だから安心してプリンを堪能しておくれ、と麗良の顔を覗き込むラムファに、麗良は思い切り頭突きを食らわせた。
 その後、教員と警備員によってラムファは連れ去られ、麗良は教室でお弁当を食べた。もちろん、デザートはない。
 また授業が中断されるかと思ったが、お昼休みが終わる頃になると、窓の外から抹茶プリンは消えていた。麗良も教師から特に何か詰問されることなく、午後の授業開始の鐘が鳴る。麗良は、何も見なかったことにした。

 しかし、事件はそれだけでは終わらなかった。
 国語の担当教員は、些細な事にネチネチと嫌味を言うので、生徒たちから煙たがられていた。つい考え事をしていて上の空だった麗良は、授業中に指名されて答えることが出来なかったため、その恰好の標的となった。成績優秀で教師たちからの人望の厚い麗良は、それまで付け入る隙がなかったため、これ幸いとでもいうように、やれ天狗になっているだの高飛車だのと、クラスメイトたちの目の前で散々嫌味を言われた。
 すると不思議なことが起きた。嫌味を言う教員の口先がどんどん尖っていき、嘴のような突起物へと変わっていくではないか。口だけでなく、吊り上った目までもが形を変え、ついに彼女の顔は、全く別の生き物へと変化した。誰かがつぶやいた。アヒルだ、と。
 嘴では嫌味も言えず、出るのは、まさにアヒルの鳴き声そのもの。その時になってようやく自分の身体の変化に気付いた彼女は、絶叫した(アヒルの声で)。しまいには、身体すらアヒルのそれに変化してしまい、彼女は着ていた服だけを教室に残して逃走した。これには他のクラスの生徒たちからも大喝采を受けた。
 後日談になるが、アヒルと化した彼女を探して、他の教員や教頭らが学校中を走り回り、池を泳ぐ白鳥の群れの中に彼女の姿をやっと見つけたという。どうやって彼女と判ったかというと、そのアヒルだけ人間の眼鏡をかけていたのだそうだ。そして、翌日には無事元の人間の姿に戻ったらしい。

 これだけではない。
 体育の授業で行われたバドミントンでは、麗良が打つ時だけ謎の突風が吹き、試合はめちゃくちゃな状態となってしまった。室内で風の影響などない筈なのに、である。
 更衣室で着替えをしていると、外から覗いている不審な男がいると他の生徒たちから通報があり、教師たちが駆け付けた時には、黒いスーツを着た中年の男が走り去っていく後姿だけが見えたという。それも走りながら「不審者からレイラを守ろうとしただけなんだぁあああ〜〜〜!!!」と叫んでいたそうだ。
 放課後になり、これで終わったかと安心していたら、家へ帰ろうと校舎を出た麗良の目に、校門前で待つ白いかぼちゃ型の馬車が飛び込んできた。御者が現れ「レイラ様のお出迎え〜」とまで言ったところで踵を返し、慌てて裏門から帰ったのだが、何故か見付かってしまい、家へ帰り着くまで白いかぼちゃと追い駆けっこをする羽目になってしまった。
 怒りを通りこして、麗良は疲弊していた。

「一体、なんなんですか、あなたは。どうしてこんなことをするんです」
 家の引き戸を開けると、満面の笑顔のラムファに出迎えられ、麗良は本日最大で盛大なため息をついた。そのまま玄関に上がる気力も沸かず、その場にずるずると腰を落とした。白いかぼちゃを捲こうと町中を駆けずり回ったため、もう一歩も動けそうにない。 「レイラ、私はただ君を喜ばせたいと思って……」
 しどろもどろに答えるラムファは、何故自分が叱られているのか解っていない様子だ。
 どうやら本気で麗良が喜ぶと思っているらしい。
 乱れた息を整え、麗良が改めて問うた。
「あなたは一体、何者なの? 私をどうしようというの?」
 その時、麗良は初めて彼の顔をまともに見た。彫の深い目鼻立ち、日に焼けたチョコレート色の肌、切れ長の目にかかる黒い髪は少し波打っている。身長は麗良が見上げる程に高く、肩幅も広い。  麗良の真剣な目に答えようと、ラムファは居住まいを正した。
 そして、話しても信じてもらないだろうが……と、切り出す。
「私は、妖精の国からきた妖精王ラムファタル。
 レイラ、君を迎えに来たんだ」
「…………は?」
 予想を遙かに超えた回答に、麗良の相好が崩れる。しかし、ラムファの顔は真剣だった。
 その瞳の色は、麗良によく似た深い緑色をしていた。