木々が緑色の葉を付ける季節。空気は澄み、涼やかな風が木々の合間を通り抜けていく。葉と葉の隙間から漏れる陽の光が宝石のように煌めき、弥生は目を細めた。
 家から勤め先の仕立屋まで行くには少し遠回りになるが、この遊歩道を通って行く事が弥生の日課になっている。
(今日は、いるかしら)
 石畳の上で下駄が立てる小気味良い音。その音に合わせて小さく歌う(かんざし)の鈴。それらがいつもの十字路へと差し掛かる。そこには、弥生がここに通う理由がある。
 道の端に目当ての人物を見付けて、弥生は、その白い頬を薄紅色に染めた。そこにいたのは、一人の青年だった。
 ここ数日間ほど見掛けていなかったが、その姿形は変わらない。無地の紺色の着物を身に(まと)っている。ただ変わった事と言えば、(あわせ)から(ひとえ)になった事くらいだろう。
 その青年は、弥生がそこに居る事に気付いていないようだ。袖の中に両腕を入れて、道の両端に立ち並ぶ木々をただ見つめている。
 弥生は、着物の胸元を片手で寄せ合わせながら顔を俯けた。ゆっくりと下駄が音を立てて、青年のすぐ傍を進む。しかし、青年は動かない。
 普段よりも少しだけ早く脈打つ弥生の鼓動。鳥の歌声。緑の囁き。下駄の音に混じって、僅かに聞こえる鈴の音。風が運んでくる朝の薫り。
 それは、弥生が青年の傍を通り過ぎる瞬間。そのたった数秒にも満たない瞬間が弥生には、とても長い時間のように感じる。
 しばらく歩いて行った所で、弥生が小さな溜め息を吐いた。再び息を吸うと、朝の空気が肺の中を一掃してくれるように感じた。それからしばらくは再び真っ直ぐな石畳が続く。弥生は、その間に平常心を取り戻して、仕立屋へと向かうのだ。
 この一連の動作が弥生の日課だった。

 弥生には父親がいない。生きている頃には、そこそこ名の知れた腕の良い棟梁であったが、ある日仕事中の事故で命を落としてしまったのだ。何よりも大工という仕事を愛していた父だからこそ、幸せな死に際だったと母は言う。それは弥生にとって、母親が自分自身に言い聞かせるかのように聞こえた。
 明るく気さくな父だった。それ故に周囲からの人望も厚く、多くの人がその死を悲しんだ。
 しかし、涙で物は買えない。残されたまだ幼い二人の子供達の為にも、母と長女の弥生が懸命に稼がなければならなかった。その時、弥生はまだ十歳になったばかりだった。
 かくして弥生は、家から少し離れた仕立屋で、お針子として働く事となった。元々手先の器用な子であった為、針仕事は、そうそう苦難を強いる事なく済んだ。また、父親から受け継いだ気性から周囲にも親しまれ、平穏な日々を過ごしていた。
 しかし、いくら働いているからと言って、弥生はまだ子供だ。十四歳ともなれば、平穏な暮らしよりも華やかな暮らしというものに憧れるものだろう。それなのに弥生は、何一つ文句も言わず、懸命に家族の為に働いていた。
 もちろん、弥生に人並みの好奇心がなかったわけではない。同じ年頃の子供がお洒落等をして楽しんでいるのを町で見ては、それを羨ましくも思った。ただ、その事を口に出すと、母親が悲しむ事を知っていたのだ。
 長女としての責任感もあったのだろう。弥生は、その感情を決して表には出さず、周囲にはいつも明るく振る舞っていた。
 そんなある日、弥生がたまたま店の使いで隣町まで足を運ぶ事になった時の事だ。その隣町まで行く途中にある遊歩道を通った。そこで、その青年と出会ったのだ。
 初めて青年を見掛けた時、弥生は、変わった人だな、としか思わなかった。路の端に突っ立ったまま、何かを見ていると言った様子でもなく、ただ惚けているその様子は、誰の目から見ても滑稽な物にしか映らないだろう。
 しかし、何故か弥生はその青年の事が気になった。惚けていると言っても、決して腑抜(ふぬ)けた顔をしているわけではない。それなりに整った顔立ちをしていて、普通に町を歩いていたら少々人目を惹くやもしれない。そんな青年が何故あんな所で一人突っ立っているのか、弥生は知りたいと思った。
 それなりに華やかな暮らしを送っている女性達であれば、そのような青年など一瞥(いちべつ)を投げるだけで終わってしまうだろう。自らの欲望を押し殺し、ただ家族の為に働いてきた弥生だからこそ気になったのだ。
 青年を観察するようになってから、弥生の小さな好奇心は更に掻き立てられた。何よりもその青年が(かも)し出す妙に落ち着いた不思議な雰囲気に弥生は惹かれた。そして気付けば、遊歩道へ行って、その青年を探している自分の姿があった。
 きっかけは、単なる偶然でしかなかったが、それが弥生にとって窮屈な生活の中での唯一の心の拠り所となっていった。
 弥生は、青年を知らない。ここ数ヶ月の間、何度か十字路ですれ違ってはいたが、ただの一度も言葉を交わした事がないのだ。弥生が傍を通っても身動き一つしない青年と視線が合う事もない。当たり前と言えば当たり前だ。青年は、弥生の存在さえも知らないだろう。
 また、毎日青年と会えていたわけでもない。青年が十字路に来る事は気まぐれのようなもので、一週間に一、二度会えるか会えないかと言う程度のものだったからだ。それでも弥生は毎日遊歩道へ通った。そのたった数秒間のささやかな楽しみの為だけに。仕事が休みの日さえも散歩がてらに通った程だ。
 弥生は、青年を知らない。青年の性格も職業も、名前さえも知らない。それ故に、いつも青年を見る度に弥生は、いろいろな事を想像する。どんな声をしているのか、どんな風に笑うのかなど。それでも自分から話しかけよう等とは、一度も思わなかった。
 弥生が青年の事で知っている事と言えば、時折、あの遊歩道の十字路に来ている事。その時は、腕組みをして立っている事もあれば、竹の手摺(てす)りに腰掛けて、何かの書物を読んでいる事もある。その程度だ。それでも弥生は、それ以上の事を特別に知りたいとも思わなかった。
 ただ青年を見て、ほんの数秒間すれ違うだけで良かったのだ。

 遊歩道を抜けると大通りに出る。その道を真っ直ぐ進んで行くと、大きな呉服屋が見えてくる。その角を右に曲がり、少し人通りが少なくなった場所に弥生が勤めている小さな仕立屋がある。店の近くまで行くと、ちょうど店の入り口で御上さんが仕立屋の名前が描かれた暖簾(のれん)を掛けているところだった。
「おはようございます!御上さん、今日はいつもより早いですね」
 急に背後から声を掛けられて驚いた御上さんは、それが弥生だと知ると顔をしかめた。
「何言ってるんだい!もうとっくに店を開ける時間だよ」
「え?あっ、ごめんなさい!」
 弥生が慌てて頭を下げる。いつものように早めに出て来たのだが、遊歩道でゆっくりし過ぎたのかもしれない。いつもなら、店が開く前に辿り着いている。
「ほらほら、早く中へ入って、みんなと仕事の準備をしておくれよ」
 御上さんが弥生の背後に回り、その背中を押しながら、店へと入ろうとした。
「あれ、弥生ちゃん。後挿(うしろざし)の鈴が一つ取れてるよ」
「えっ、本当ですか?」
 慌てて弥生が後頭部に刺してある簪に触れる。すると、その拍子に鈴がちりんと鳴いた。
「大事な物だったんだろう?いつも付けてたものね」
 弥生の手に触れたのは、鈴が一つ。元々その簪には小さな鈴が二つ付いていた。
「・・・いえ、そんなんじゃあ、ないです」
 そうかい、と御上さんが首を傾げる。弥生は、暗くなりかけた表情を一転させ、御上さんに笑って見せた。
「さあさ、遅れてしまった分、働かないと」
 その笑顔に御上さんがつられて笑みを見せる。弥生の笑顔には、周りの者までも明るくする効能があった。
 その日弥生は、早めに仕事を終わらせて店を去り、その足で朝来た道を鈴を探して歩き回った。取れてしまった鈴は、もう元には戻らない。それでも見付けて、自分の手の内に置いておきたかったのだ。
 それは、赤い漆の塗られた可愛らしい簪で、父が生前に買ってくれた物だった。
 辺りが暗くなり始めた頃、弥生は遊歩道にいた。いつもなら帰りは遅くなるので、人通りの少ないこの遊歩道を通る事はめったになかったが、今日は致し方ない。弥生は、どうしても鈴を諦めきれなかった。
 その時弥生は、鈴を探す事に夢中になり、自分の背後に近づいて来た人影にも気付かなかった。
「もし、お嬢さん。何かお探しですか?」
 ふいに背後から声を掛けられ、弥生は驚いて後を振り向いた。その視界いっぱいに、まず見覚えのある紺色の着物が広がる。次に少し顔を上げると、今朝、弥生が遊歩道で見たあの青年の顔があった。
 突然の出来事に言葉を失う弥生。その視線は、宙で青年のそれとぶつかったまま動く事が出来ない。それは、まるで金縛りに遭ったかのような感覚だった。
「こんな暗い中、女性がお一人で歩いているのは危ないですよ。それに、探し物をしようにも、こう暗いと見つかる物も見つからないでしょう」
 その声は、弥生が想像していたよりも少し高い。しかし、青年の(まと)う雰囲気に似合った穏やかな声質だ。そんな事を朦朧(もうろう)とした頭の中で考えていた弥生は、ふと我に返ると、慌てて青年から視線を外した。
 その人だと実感すると、妙に意識された鼓動が時を早めるのが解る。一度外した視線は、元に戻す事が出来なくて、そのまま顔を俯けた。
 黙ったままでいる弥生の様子を心配してか、青年が慌てた様子で口を開いた。
「どうかそんなに怯えないでください。僕は、決して怪しい者ではありませんから」
 と言っても、信じてもらえませんかね。と、青年が苦笑する。弥生は、青年に誤解されたくなくて、顔を上げた。
「そんな、怪しい者だなんて思ってないです!ただ少し・・・驚いた、だけで・・」
 弥生と青年の視線が再び宙で繋がる。改めて真っ正面から見る青年の顔は、少し幼く見えた。青年が弥生を安心させようと、優しく微笑む。その表情は、弥生の頬を薄紅色に染めた。
「御自宅は、どの辺りに?宜しければ、僕が家まで送りましょう」
 その表情は優しく、弥生を気遣う青年の心根が伝わってくる。初めは断っていた弥生だが、青年の好意に負け、家の傍まで送ってもらう事となった。

 青年は、名を誠一郎と言った。自分の性を名乗らなかった誠一郎につられて、弥生も自分の名前だけを口にする。この時代、自らの生まれを恥じて性を名乗らない者も少なくない。弥生もそうだった為、あまり深くは考えなかった。
「鈴を・・・探してました。この簪に付いていた鈴です」
 そう言って、弥生が自らの後ろ髪に手を当てる。残された一つの鈴がちりんと鳴いた。
「可愛らしい簪ですね。あなたによく似合う」
 えっ、と弥生の頬が紅色に染まる。しかし、辺りが暗かったお陰で、誠一郎には気付かれなかったようだ。それよりも何かを考えているように見えた誠一郎に、弥生は前々から疑問にしていた事を口にした。
「いつもそんな風に何かを考えていらっしゃいましたよね。一体、何を考えておいでなのです?」
 言ってしまった後で弥生は、自分の発言が軽率だったとひどく後悔した。これでは、自分がいつも誠一郎を見ていた事を証言したようなものだ。しかし、弥生の心配に反して、誠一郎は照れくさそうな笑みを零した。
「参ったな、見られてましたか」
 弥生は、何とか弁解をしようとするが、上手い言葉が見つからない。すると、それもそうか、と誠一郎が続けた。
「弥生さんもよく、あの遊歩道を通っていましたものね」
「えっ・・。私の事、知っていらしたんですか」
 驚いて立ち止まった弥生を、それより数歩先で立ち止まった誠一郎が振り返って微笑んだ。
「鈴の音が聞こえてましたから」
 鈴と言っても、弥生の簪に付いている鈴は、小さな物だ。下駄の音の方がよく聞こえるのではないかと疑問に思ったが、先程の事もあり、あまり失礼な事は聞けない。女が主張する事は、あまり美徳とは思われないからだ。
「恥ずかしながら、物書きをしている身でして、小説の題材に何か良い物はないかと、いろいろ思考を巡らしていたのです」
 会話が途切れたのを見計らって、誠一郎が先程の弥生の問に答える。その様子からして、あまり気にしてはいないようだ。
「小説家・・・先生でしたか」
「いえいえ、先生だなんて滅相もない!未だ無名の、しがない物書きです」
 誠一郎が困ったように笑う。そんな表情でさえ優しさに溢れている。柔らかで、心が暖かくなる。笑顔のよく似合う人だな、と弥生は思った。
 そんな会話をしている内に、二人は弥生の家のすぐ傍まで来ていた。辺りはもうすっかり暗く、周りの家々から漏れる光だけが道を仄かに照らし出していた。
「本当にありがとうございました。結局、こんな所まで送ってくださって」
 弥生が頭を下げて礼を述べると、気にしないで下さい、と誠一郎が両の掌を見せて笑った。
 別れを述べて立ち去る誠一郎の後ろ姿を見送っていると、不意に誠一郎が立ち止まる。どうしたのかと声を掛けようとした弥生に、誠一郎が振り返ってこう言った。
「鈴を・・・ほら、僕もよくあの遊歩道に足を運んでいるので、その合間にでも探してみます」
「そ、そんな事までして頂かなくとも・・・」
 弥生が言い終わる前に、誠一郎がそれを言葉で制する。
「大事な物なのでしょう?そうでなければ、あんなに遅くまで必死に探していたりなどしない筈だ」
 探している様子を見られていた故に、否定する事は出来ない。弥生が返答に困っていると、誠一郎が言った。
「もし鈴を見付けたら、お知らせします。それでは、おやすみなさい」
 そう言って一礼をすると、誠一郎は踵を返して走り去った。弥生が引き留める間もなく、誠一郎の後姿が闇の中に消えていく。その方向に向かって弥生は、おやすみなさい、と小さく呟いた。

 この事をキッカケに、翌日から弥生と誠一郎は、少しづつ言葉を交わすようになっていった。
 弥生が落とした鈴の話から始まって、誠一郎の下宿している部屋に住み着いてしまった野良猫の話や、それを大家さんに見つからないように苦労している話、そして弥生が勤めている店の話など。弥生の鈴は、見つからなかったが、いつしか弥生は、このまま鈴が見つからない事を密かに願うようになっていた。
 二人が話す時間は、弥生が家から店に行くほんの僅かな間だ。その為、時々弥生は店に着くのが遅れてしまう事もあった。そんな時は、急いで遊歩道を走り去る弥生の姿を見て、誠一郎は声を立てて笑った。
 時には少年のように、またある時には大人びた表情をして見せるその青年に弥生は惹かれていった。
また誠一郎は、とても気性の穏やかな人物で、その話方から笑い方までもが品に溢れていた。それは小説家としてはあまりにも不似合いだった為、ある日、弥生は聞いてみる事にした。
「誠一郎さんは、物書きをしていらっしゃると聞きましたが、こうして話していると物書きと言うよりも、どこか立派な御曹司様のように思えてなりません」
 弥生が誠一郎を先生と呼ぶと、彼は少し困ったような表情を見せる。それが嫌で弥生は、誠一郎を先生と呼ぶ事を止めた。
 物書きと言っても、まだ商品になるような書物を手掛けた経験もない。また、そんな実力が自分にあるのかさえも解らないのだから、もし自分が先生と呼ばれるとしたら、先生と名の付く方々に失礼だ、と言うのが誠一郎の意見なのだ。
 しかし、この時の誠一郎の表情は、自分が先生と呼ばれた時と同じような、いや、それよりも複雑な表情をして見せた。
「あ・・す、すみません!失礼な事を言ってしまって。誠一郎さんが小説家に向いていないという意味ではなくて、品の良い方だなと思っただけで・・・」
 必死に弁明しようとする弥生の姿を見ながら誠一郎は、くすくすと笑みを零した。
「御曹司とまではいきませんが・・・実は僕の家は、とある呉服屋を営んでおりまして、僕はその家の長男なんです」
 遊歩道を抜けた所にある大通りを真っ直ぐ進んで行った角にある大きな呉服屋がそうだ、と誠一郎が大まかに説明する。それで、と弥生は納得した。
 それは、全国でもかなり有名な呉服屋で、その店を毎日のように見ていた弥生は、その大きさを知っている。弥生でなくとも、その呉服屋の名前を知らないと答える者は少ないだろう。
「それでは、小説家と言っていたのは何故です?」
 すると、誠一郎は首を横に振って苦笑した。
「いいえ、私は小説家です。家とは、勘当されているも同然なので」
 誠一郎の話すところに因ると、小説家になりたいが為に親の反対を押し切って家を飛び出して来たそうだ。元々、書物を読む事が好きだった誠一郎は、いつしか自分の手でそれを手掛けたいと願うようになったのだ。
「僕は、欲張りなんです。短い人生の中で人が出来る事と言えば、どうしても限られてしまう。でも、小説の中では多くの人生を共に歩む事が出来る」
 そう言った誠一郎の顔は、とても輝いていた。それを見て、弥生が顔を俯ける。
「羨ましいです。ご自分のやりたい事を貫けていける誠一郎さんが・・・」
 改めて自分の人生を振り返ってみると、弥生には誠一郎のように自分の信念を貫いたような記憶はない。いつも周りに流され、それに合わせようと努力していた記憶しかない。自分の感情を押し殺して生きてきた弥生にとって、誠一郎の生き方は眩しすぎた。
「弥生さんは、今やっていらっしゃるお仕事が好きではないのですか?」
 誠一郎が真剣な眼差しで弥生を見つめる。少し間を置いて、弥生は首を横に振った。
「・・・わかりません。そんな風に、考えた事などなかったから」
 考える前に弥生には既に歩いていく道が決められていた。父親が生きていた幼い頃には、いろいろな夢を思い描いていたものだったが、いつの間にかそれも忘れてしまった。
「でも、仕方ないんです。父が早くに亡くなってから、母と私の二人が働いて家族を養っていかないと・・」
 弥生は、自分を偽る事も忘れて、いつになく真剣な表情をしていた。
「お父様は、お亡くなりになっていたのですか・・・」
 弥生が小さく頷く。そして、ふとそんな自分を不思議に思った。いつもなら自分の身の上話になると、平気な振りをして明るく笑って見せたり、話題を変えたりをするのが弥生だ。暗い雰囲気や、他人からの同情の眼差しに耐えられないからだ。
 しかし、何故か今は気にならない。逆に、妙に落ち着く。誠一郎の優しく落ち着いた雰囲気がそうさせるのだろうか。弥生が顔を上げると、後挿しの鈴が小さく鳴いた。
「実は、あの夜に私が探していた簪・・・父が昔、私に買ってくれた物だったんです」
 弥生は、本当に何の抵抗もなくその話をする事が出来た。それは、大好きだった父との思い出を大事にしておきたい気持ちと、自分の弱い部分を知られたくない思いから、家族以外の誰にも言えなかった話だ。
 誠一郎は、弥生に会う度にいつも鈴の事を気に掛けてくれていた。また、この簪が弥生にとって大切な物である事を誠一郎は知っている。しかし、理由はそれだけではないような気がした。
「鈴・・見つかると良いですね」
 そう言った誠一郎の表情は、何故か少し寂しそうに見えた。

「何だかやけに張り切ってるわねぇ。何か良い事でもあったのかい?」
 弥生が針子の作業をしていると、御上さんが含みのある笑みを浮かべて近づいて来た。
「な、何にも無いですよ」
 弥生は、何でも無いと言った様子を装い、再び手を動かし始めた。しかし、御上さんは弥生の反応など気にも留めないと言った様子で自分の話を続ける。
「あたしゃ心配してたんだよ。ほら。弥生ちゃんったら、まだ若いって言うのに毎日仕事熱心で浮いた話の一つもないんだから。好いた男の一人や二人いないのかー、ってね」
 弥生の頬が仄かに紅色に染まるのを見て、御上さんの表情が確信の笑みへと変わる。
「ふふふ。ま、何があったにせよ、弥生ちゃんが元気だと周りのみんなまで元気になってくれるから、あたしとしては大歓迎だよ」
 もちろん、あたしもね。と、御上さんが片眼を瞑って見せる。御上さんに指摘されて弥生の頭に浮かんだのは、誠一郎の顔だった。
 好感を持っている事は確かだが、好きかどうかまでは解らない。ただ気になるのだ。
 目が合うと必ず微笑んで話し掛けてくれる。話の途中でさえ時々何かを考え込む癖。両腕を袖の中に入れている時は、大抵何かを考えているのだと言う事も知った。
 少し前までには、思いもよらなかった状況だ。知れば知るほど知りたくなっていく。会えば会う程、会いたくなっていく。こんな気持ちは初めてだった。ただ傍にいる事が何よりも心地良いのだ。
 弥生は、気を抜くと緩んでしまう頬を両手で二回程叩いてから、作業を続けた。

 翌日、誠一郎はいつもの十字路に現れなかった。小説家の仕事は、特に時間に縛られる事はない。それ故に、本人が気の向く時に筆を持ち、気の向かない時は睡眠を取ったり気分転換に散歩に行ったりする。それ故に不規則な生活を送っている、と誠一郎は言っていた。
 しかし、その次の日も誠一郎は現れなかった。
(きっと忙しいのよ)
 そこで弥生は、ここ最近は毎日のように誠一郎と会っていた事に気が付いた。それまでは、一週間に一、二度会えるか会えないかと言う程度だったのにも関わらず、平気でいられた。それよりも、明日は会えるだろうか、明後日は会えるだろうか、と考える時間が楽しくもあった。それなのに今では、たった二日会えなかっただけで妙に心が落ち着かない。弥生は、初めて感じる自分の気持ちの変化に戸惑いを覚えた。
 次の日も、そのまた次の日も誠一郎は現れなかった。それでも弥生は遊歩道へ通った。
 もしかしたら誠一郎の身に何かあったのではないか、と言う疑念が弥生の脳裏に湧く。しかし、だからと言ってそれを確かめる術はない。誠一郎が住んでいる下宿先を弥生は知らないのだから。
 2週間ほど遊歩道へ通って、弥生はやっと納得した。自分は、避けられているのだ。あの優しい青年に何か気に障るような事を自分が言ったのだろう。思い起こせば、思い当たる言葉がいくつかある。
 何かあったにしろ、2週間も会えないのは、おかしい。もし何かの事件に巻き込まれたのであれば、そのような情報が流れて来る筈だ。だが、それもない。
 要は、嫌われてしまったのだ。
(迷惑・・・だったのかしら)
 弥生の胸がきりりと痛む。しかし、涙は出ない。頭を垂らすと同時に後挿しの鈴が揺れて小さく鳴いた。

 それからと言うもの、弥生は遊歩道を通らないように心掛けた。ふと気を抜くと、いつもの癖で遊歩道へと足を向けてしまう。元々、遊歩道に時々現れるあの優しい青年を見る為にわざわざ遠回りをしてまで通っていた道だ。彼が来ないと解っては、行く必要もない。
 弥生は、行き所のない気持ちを仕事に打ち込んだ。好きか嫌いかというよりも、慣れた針仕事をする事は、弥生にとって何よりも心を落ち着ける事が出来た。
 それから約一週間が経った。
「弥生ちゃん。あなた今日はもういいから、帰りなさい」
 弥生が針を持つ手を止めて顔を上げると、そこには静かに怒っている御上さんの顔があった。
「え・・でも、まだお昼にもなってないのに・・・」
「仕事熱心なのは嬉しいけどね。あなたちょっと働き過ぎよ。休暇の日だって全部削って来て。顔色もあんまり良くないし、今日はそんなに注文の数も多くないから、帰って少し休んだ方がいいわ」
「あ、私なら大丈夫です。今、何だかやる気満々で・・」
 弥生が笑おうとして見せるが、いつものように上手く笑えない。御上さんが深い溜め息を吐いた。
「何があったのかは知らないけどね。身体を壊してまでやり通す必要があるものなの?」
 弥生が視線を落とす。いつからだろうか、笑顔を作る事が出来なくなったのは。御上さんにまで心配を掛けてしまっていた事が弥生には悔しくてならなかった。
「あなた、ちょっと頑張り過ぎるのよ。それが悪い事だとは言わないけどね。周りにいるこっちが痛々しくて、見ていられないんだから」
「すみません・・・」
 御上さんが優しく弥生の肩に手を乗せる。
「全くの赤の他人だけど、みんな弥生ちゃんの事が心配なんだよ。何でも自分一人で溜め込まないで、息を吐いて肩の力を抜いてごらん。たまには子供じみた我が儘だって言ってみるもんさ」
 御上さんに促されるままに店を出た弥生は、果ての無い空間に放り出されたような空虚感を覚えた。
 どんなに仕事に打ち込んでいても、いつも頭の隅に現れるのは、毎日通っていた遊歩道と、あの優しい青年の笑顔だった。何かハッキリと別れを告げられたわけでもない。嫌いだと言われたわけでもない。区切りと言うものがなかったからだろうか、弥生の心はいつまでもどこかに引っ掛かったまま外れない感覚がしていた。
 石畳を歩く下駄の音で弥生は、自分が今いる場所がどこであるかに気付いた。無意識に歩いていたので、いつもの癖でここへ来てしまったようだ。
 風に吹かれて揺れる木々の香り。鳥達の歌声。忘れる筈もない。毎日のように通っていた、あの遊歩道だ。それは、前と何一つ変わっていない。ただ、そこにあるだけだ。
(でも、あの人がいない・・・)
 たったそれだけの事で、こんなにも景色が変わって見えるのは何故だろうか。こんなにも胸が締め付けられるのは何故だろうか。
 弥生は、頬を伝う涙の感触で自分が今泣いているのだと言う事に気が付いた。
「人は、泣いてから初めて自分が悲しいんだという事に気付くんですよ」
 そう教えてくれたのは、書物を読むのが好きな優しい青年だったか。
 弥生は、両手で顔を覆って、その場にしゃがみ込んだ。抑えようとしても、嗚咽が後から後から押し寄せてくる。ただただ、あの優しい青年といた時が愛しくて。
(ああ、私・・・誠一郎さんの事が好き)
 震える弥生の肩に誰かが優しく手を乗せた。
「弥生さん?どうしたんですか?」
 何度も弥生の名前を呼ぶその声は、弥生がこの遊歩道で幾度となく聞いた優しい青年のものだった。
「嫌われてしまったのかと思った・・・」
 いつになく狼狽えた様子の誠一郎を見て、弥生の表情に笑みが戻る。誠一郎に支えられて竹の手摺りに腰を掛けると、幾分か落ち着いた様子を見せた弥生に誠一郎が改めて泣いていた理由を尋ねた。
 弥生は、今まで抱えていた全ての想いを話した。
「私、あれから考えてみたんです。自分が今やっている仕事を好きか嫌いかって」
 誠一郎は、黙って弥生の言葉を聞いていてくれる。
「でも・・・やっぱり解らなかった」
  他人に強制されて始めた仕事だが、四年以上も続けていると情も湧いてくる。でも、だからと言って好きだとは思えない。考えれば考える程にそれは解らなくなっていく。もしかしたら、それよりも好きだと言える物が無いせいでもあるかもしれない。だとしたら、今の弥生には結論を付ける事など出来る筈がない。針仕事以外の仕事を知らないのだから。
「それでも、良いんじゃないでしょうか。自分の生きる道をその年で見付けられる人は、少ないでしょう。僕も時々不安になります」
「誠一郎さんでも?」
 はい、と誠一郎は笑った。
「ゆっくり見付けていけば良いんです。そう、散歩でもしながら、ね」
 誠一郎が遊歩道を見渡す。そこは、季節が変われば変わるものの、一年を通して変わる事はない。そこだけ時に見逃された憩いの場。
 いつしか弥生の心は、風に吹かれて揺れる木々のように軽やかになっていった。
「実は、弥生さんに謝らなくてはならない事があるんです」
 そう言うと、誠一郎は懐から一冊の本と小さな巾着(きんちゃく)を出して弥生の手に渡した。
「これは?」
「その本は、僕が手掛けた物です。弥生さんを見ていたら、急に書きたくなって。ここ数週間程、部屋に閉じ籠もって仕上げていたのですが・・・そのせいで弥生さんを心配させてしまいましたね。申し訳ありません」
 そしてこれは、と誠一郎が巾着を開けて自分の掌の上で逆さにすると、中から金色の小さな鈴が一つ、ちりんと声を出して転がり出た。
 弥生を家まで送った日の朝。誠一郎は、道に鈴が落ちている事に気が付き、それを拾っておいたのだ。いつも遊歩道を通る度に聞こえてくる鈴の音のそれだと知って。
「これを渡してしまうと、あなたと会って話をする口実がなくなってしまうと思ったら、渡せなかったんです」
 誠一郎が頬を赤らめて、弥生から視線をずらす。頬を薄紅色に染めた弥生は、驚いたような惚けたような顔をして誠一郎の横顔を見つめた。
 その日、初めて二人は、一緒に遊歩道を歩いて回った。
 木々が緑色の葉を付ける季節。空気は澄み、涼やかな風が木々の合間を通り抜けていく。葉と葉の隙間から漏れる陽の光が宝石のように煌めき、弥生は目を細めた。

*遊歩道・・・散歩のために作られた道路。散歩道。

-THE END-